渦巻く知識

美と自由と

 中学一年生の折、美術の初めての授業で配られたのは、一枚の白い紙だった。教員はホワイトボードに『自由構想画』と書きこういった。
「何でも好きなことを自由に描きなさい」
 クラスメイト諸子は、嬉々として絵を描き始めた。
 あの日、私に去来したのは『自由とは何か』という問であった。この白い一枚の紙に私は『自由』を描かねばならない。そう考え始めると私の気は委縮した。我が身未だ自由を知らねども、それを表現せしめられたし。
 私はその日、何も描いていない紙の裏面に名前を書き提出した。
「真面目にやれ!」
 と一喝された。あの日以来、私は絵を描くということをしないと心に決めた。それ以降、美術の授業のある日は不登校になった。期末テストで美術の時間になると、身の毛もよだつ心持であった。
 表面は美術の歴史や描写の技法についての記述が連なるが、裏面には常にこう書いてあった。
『自由構想画(二十点)』
 私は中学の三年間において八十点を超える点数を美術でとれたことがなかった。通知表の評価は常に五段階評価の一であった。

―――自由とは結局何なのか。
 「自らを由とせよ」の文面に頼るのならば、自由とは自らの内より発せられる物で、而してそれは尚、自らを以て由緒とせねばならない。
 興りたる事柄の由緒を自らの内より発せしめることこそが自由だというのであれば、こんな理不尽なことはない。
 何故ならばそれは、由しとしたる儀は我が内に端を欲すと一言添えれば何物でも良いという事なのである。理屈なき感情を本能と呼び賞する者がいるが如く、何事をも自由を語るのではおのがじし勝手きわまる様相である。私はそれを蔑如する。「誰でもどうぞご勝手に」が自由だと云うのであれば我が自死を以て自由を弾劾する

―――では自由とは何か。
 自由とは元来『何かに従うこと、支配や拘束からの逸脱』という意味ではなかったか。前述の意を除く『自由』の意味は、概ね支配から逃れることである。
 もし仮にそうだとするならば、あの日私が与えらられた白紙に私は何ものをも描かないことを選び得たのではないか。何故ならば自由なる構想には、その構想の当てはまる枠からも又、支配される由はない。
 然るに、枠組みで測れぬことも又、自由は包括するのではないか。


 何にせよあの日、そもそも「美術とは何か」を知らぬ若輩に対して「好きに描け、評価してやる」と言うが如き傲岸不遜たる態度で、挙句に自らが教えることを放棄し乍ら、「真面目にやれ」などと怒鳴る者を教員として認めていた県教委の無能さこそが私のこの小さな、けれども一生の内に恐らく消えることの無いトラウマを植え付けた原因なのである。
 そしてその責任の話をいくらしたところで、『あの日』は消えることはない。私は絵を描くことはないし描き方を学ぶこともしない。
 才能が、万が一にもないとは思うが仮に私の中に、未だ自分でも知り得ぬ絵の才能があったとしても、それは最早来世を待つ以外にはない道なのである。

 一部とはいえ不登校に陥った私は、当然他の授業にも着いていくことは出来ず、少しずつ学校へ行く日を減らしていった。
 あの時せめて、人並み以上の努力をしようと考えなかったことが今も尚痛恨の極みである。